どれだけお金があれば満足できるのか?
引越しシーズンだからなのか、
YouTubeの広告で金融機関で融資してもらえる
という内容のものを何度か見ました。
確かに、予定していない出費がかさむ時期ですが、
どのくらいお金があれば満足できるんだろう?
と興味が湧いたので、今回の記事では、
どのくらいお金があれば満足できるのか?
に焦点を当てたいと思います。
私はインドの哲学を勉強しているので、
今回は、リーラ(神の遊戯)とマーヤ(幻想)
の概念に沿って考えてみたいと思います。
インドの哲学には「リーラ」という美しい概念があります。
それとセットで理解すべきなのが「マーヤ」です。
詳細は後述しますが、
今回のテーマ「どのくらいお金があれば満足できるのか?」
の結論を言うと、
「お金が判断材料のうちは、一生お金は不足する」だと思います。
なぜかというと、
お金が価値基準である限り、視野が限定的で、
人生の楽しみをお金で解決しないといけない
という思考から抜けられないからです。
これは、ものが足りなくても満足しなさいとか、
引越し先で机がなければミカン箱で
我慢しなさいと言いたいのではなく(笑)、
私たちが生きる時の感覚の多くは、
お金で満たすことのできない領域にまで宿る
ということを伝えたいのです。
お金で満たすことのできない領域について
お話しするために欠かせない、
「リーラ」と「マーヤ」の考え方について、
ここから解説していきますね。
マーヤ(幻想)の概念
マーヤは、私たちが認識している世界は
究極的には幻想であるという考え方です。
これをお金の文脈で考えると:
物質的な富や所有物が持つ価値は、実は私たちが作り出した幻想(マーヤ)にすぎません。
「お金がたくさんあれば幸せになれる」という考え方自体がマーヤの働きなのです。
お金という概念自体も、人間が作り出した幻想のひとつと言えます。
バガヴァッド・ギーターやインドの哲学では、
この世界は「マーヤ」(幻想)だと教えています。
これは、ひとつ前の投稿でも触れた
中国人家族の荷物の多さの内容とも
親和性がある考え方です。
私たちが価値があると思っているもの
特に物質的な豊かさや所有物は、
実は永続的な満足をもたらさない幻想なのです。
私たちは「もう少しお金があれば」と常に考えがちですが、
その「もう少し」は際限なく拡大していきます。
今日の「十分」は明日には「足りない」と感じるようになります。
これこそがマーヤの最も巧妙な側面です。
リーラ(神の遊戯)の概念
リーラは、宇宙の創造と存在そのものを
神の「遊び」や「踊り」として捉える概念です。
私たちの生活や経済活動も、より大きな宇宙の「遊び」の一部として見ることができます。
リーラの視点から見ると、重要なのは「いくら持っているか」ではなく、この宇宙の踊りにどう参加するか―つまり「在り方」です。
お金も神聖な遊びの中の単なる道具に過ぎず、それ自体に意味はありません。
もし私たちの人生もこの神聖な遊びの一部だとしたら、
重要なのはお金をいくら集めるかではなく、
この踊りにどう参加するか
つまり私たちの「在り方」なのです。
執着なく今この瞬間を生きることは、
この神聖な遊びに完全に参加することなのかもしれません。
お金と満足の関係を、リーラとマーヤで考える
お金という概念をマーヤとリーラの観点から見ると、
「お金が判断材料のうちは、一生お金は不足する」
と書かれている意味がわかるのではないでしょうか。
お金があれば安心感を得られるのは事実です。
しかし、その安心感は「マーヤ」(幻想)に基づいている可能性があります。
なぜなら、私たちが本当に必要とするものは
外側の物質ではなく、
内側の平和や充足感だからです。
リーラの視点からは、
お金は宇宙の神聖な遊びの中の一要素に過ぎません。
この神聖な遊びに完全に参加するためには、
お金は必要条件ではありません。
もしお金をかけないといけない場所で
その「遊び」が開催されるのであれば、
あなたはそこに"行くことになる"のであり、
それはその時のお楽しみなのです。
本当の豊かさとは
インドの哲学に基づけば、
本当の豊かさは内側から生まれるものです。
外側の富が増えても、
内側が満たされていなければ、
際限のない欲望の輪から抜け出すことはできません。
お金に対する執着から解放された時、
私たちは初めて本当の自由を体験できるのかもしれません。
それは「お金がない」という意味ではなく、
「お金に支配されていない」という意味です。
さて、あなたはお金をどれだけ手にしたいですか?
そして、その欲求の奥には何があるのでしょうか?
by Jessica Kato 加藤ジェシカ